「いいかげん」は難しい

久しぶりに庭の掃除をした。狭い庭だが6種類の椿が植えられていて、この季節になると一斉に花を咲かせ、またたく間に散ってしまう。その落ちた花弁を掃く作業に没頭してる時に「いいかげん」が大事だなと思った。一度気持ちにエンジンがかかると切りがなくなる。「いいかげんにしろよ」と思いつつも、完璧に掃き清めないと済まなくなって来るのだ。落ち葉掃きと比べるのはおこがましいが、陶芸作家も同じようなことがないのだろうか。確かにやればやるほど精密度は上がるであろう。より精緻なものができるであろう。しかし、味わいというものは必ずしも努力の量とかけた時間に正比例する訳ではない。職人として「いいかげん」な仕事をしてはいけないが、「いいかげん」にしなくちゃならないのだ。そこが難しい。千利休が武野紹鴎の弟子であったときの話を思い出した。利休は、庭の掃除を命ぜられ、落ち葉一つないほど掃き清めたが、最後に枯れ葉数枚をまいて、掃除を終えたという。利休の美意識(「侘び」)を伝える有名な話だが、むしろ利休が十分に近代人であったことを伝える話にも思える。大変な審美家である利休は、まさに「いいかげん」を意識的に創作したのだ。この「いいかげん」が無心にできるは、天才(天然?)をおいて他にない。
写真は、5月、陶芸家鈴木照雄邸にて。
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