ゴッホの『ひまわり』展 7月15日~8月31日 宮城県美術館

ゴッホのひまわりは確かに筆で描かれた絵であるのだが、通常の絵のカテゴリーには入らない、聖なるものか、デーモンの仕業か分からないが、名付けようのない何か別のものを見ているような恐ろしさがあった。この絵に比べれば、同会場に展示されていた私の好きな長谷川りん次郎の絵でさえ、まだ花の美しさに媚びている。まして梅原龍三郎の薔薇の絵なぞ、厚化粧を施したホステス嬢のように見えてきてしまう。
しばらく見てると様々な態様で描かれたひまわりの間には空間があるようで、3D絵画のように浮きあがって見える。一つ一つの花弁のかたちといい、色彩といい、きわめて繊細にバランスされた世界が見えて来る。脳細胞のすべてを覚醒させないとできないような絵で、冷静に筆致をコントロールしながら、ほんとうの花の姿、その「卑俗な事物から引き出された神話的な現実」(アントナン・アルトー)を描いている。この事物との極限的なスパークの中でむきだしとなった魂がここには描かれているようだ。そう思うのは「耳切り事件」の前後に書かれた絵、というバイアスがあるからだろうか。同時期に描かれた他の2枚のひまわりの絵に比べると押さえた色彩で、一般におなじみの「激情の画家」とはまるで違う画家の本質をかえって浮き彫りにしている。
収監された精神病院からのゴッホの手紙を読むと、画家はこのひまわりの絵も含め3幅対に仕上げて船室の奥に飾ればよいと、スケッチ付きで弟テオに提案している。これまで一枚も兄の絵を売ることができず、金銭的負担を掛け続けている弟のために、画家は売り方の算段までしている。魂に関わる仕事をしているといっても、人間はこの売り買いから無罪放免とはいかない。このことを正直に残しているゴッホをむしろ好ましく思う。それにしても今この三幅対が揃えば10億は下るまい。それを考えると不条理な話だが、この思い通りにならない現実と交換に永遠の世界に突き抜けた絵が生まれたとも言える。
啓示に近いものを受けて垂直に構成されたゴッホの絵と違い、高度な完成度を持った絵でも幻のごとく幽冥の境定かならざるところ、つまり永遠に中心を持たないところに日本の絵の特色がある。川端龍子の屏風絵、「和暖」は葉の一枚一枚にわたってゆるみのない絵で、しかも「ひまわり」の前座のように集められた日本の作品の中では、美しいだけでない不思議な深度があっていちばん心惹かれたが、この重畳たる枝葉を押し抜けて、いつの間にやら穏やかに冥界へと入ってしまいそうな感覚を呼び起こすこの絵の世界は、プラトニズムの伝統の中にあるゴッホの世界とはずいぶんと違うものだと思った。
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